3 宗祇と定輪寺
宗祇が定輪寺を訪門したという記述は残されていませんが、当時定輪寺は名だたる古刹であり、今川氏歴代から 寺領を安堵されており、またそれまでの宗祇と今川氏との深い縁、弟子の宗長が今川氏の家臣であったことなどを 考えると当然訪れていることは想像に固くありません。記述からすると三度の機会があります。
1.文政元年(1466)はじめての東国下向の折、8月清見が関月見の連歌会を催した後、9月に武蔵に向かう
までの間。
2.文明3年(1471)宗祇は東常縁が三嶋で陣を張っていた折、二度に渡って古今伝授を受けています。
その折、定輪寺から三嶋に通ったとも言われています。
3.文明16年(1484)4月下旬に京都を出て東国を経由して越後へ向かっています。ほととぎすの頃江戸で
座を設けているのでその途中定輪寺に滞在したとも言われています。
4.文亀2年(1502)越後から美濃への旅の途中、箱根湯本で病で急死した宗祇を、かねてより富士をもう一度
と願っていた師匠のために亡骸を輿にのせ富士山の懐、定輪寺まで運びました。これは生前よりの宗祇との縁、 定輪寺がそれに値する名刹であったことも理由の一つとされています。
宗長の「宗祇終焉記」によると亡骸は門前から少し入った水の流れの清らかな、杉、梅、桜があるところに
埋葬し記念に松を植えた、とあります。
その折定輪寺の住持(住職:3代甫永富か)は宗祇に「天以」の道号を与えました。
下記は定輪寺に保存されている「天以」の坐像です。